2007年 03月 16日
善き人のためのソナタ |
-原題:Das Leben der Anderen/ 英題:The Lives of Others–
ドイツ映画 監督: フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
音楽:ガブリエル・ヤレド
主演:ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ケデック、セバスチャン・コッホ
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鮮烈なドヴィッシー風のピアノ・ソナタ「善き人のためのソナタ」が流れる。
劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)が弾き、恋人クリスタ(マルティナ・ケデック)が寄り添う。
一部始終を盗聴していたシュタージ(国家保安省)のヴィースラー大尉は、そこに流れる哀しくも美しいピアノの旋律と二人の会話に、嵐に撃たれた様な衝撃に立ち尽くす。
心を揺さぶる別の世界がある事に、うち震える。
自らの監視の任務を忘れ、信じがたい行動に走り出してゆく、ベルリンの壁崩壊前の秘密警察の監視下の厳しい旧東ドイツにあった人間性溢れる物語である。
ドイツは東西統一から17年経って、東ドイツであったおぞましい個人の自由を奪った秘密警察による恐怖の実態が描けるようになったと言う。
ドイツは戦後を未だ終わらせていない。昨年公開された映画「白バラの祈り」はナチの反体制学生の弾圧を壮絶に描いていたし、この「善き人のためのソナタ」は独裁政治の残酷さを容赦なく淡々と描いていて、これらの悪夢を映画世界の中で、自らの手で“総括”している。
自由を得る為にこれだけの犠牲があったことを、シリアスに主張している。
しかもこの問題を、戦争を知らない若いドナースマルク監督がこんなアーティスティックに又、情感豊かに描けた事は、特筆すべき事である。
それは過去を洗い流さず、苦渋の事実を正視して明日を見つめている。真摯な視線で、新鮮に“真,善,美”を描いて感銘深いものがある。
さて、厳しい監視の中でドライマンは、東ドイツでいかに自殺者が多いかと云う暗い事実を西ドイツの雑誌「シュピーゲル」に掲載する事で、物語を激しく展開させる。出し抜かれた体制派は警戒を更に厳しくする。
一方この辺から洗脳された監視側のヴィースラーは、任務に反し二人を無表情のまま智恵を絞って協力する。
見所は、盗聴を続ける大尉と劇作家の攻防戦と、その過程で大尉の内面がどう変っていったかであろう。
しかし事態は急進し、権力をかさにして大臣が女優クリスタを脅迫しながら、我がものにしてゆく、恐怖の日常の中に揺れるクリスタの苦渋の選択が描かれ、緊張の頂点で恋人を告発させられる嵌めになる。
罪の意識を持ちながら、彼女は家を飛出し遂に犠牲になる。
恐怖の監視は終了となり、時を経ずして東ドイツは消滅する。
この作品を見ながら、同じ切ない強烈な思い出が鮮明に蘇って来た。
それは1990年11月元東ドイツのドレスデン交響楽団の指揮者、ヘルベルト・ケーゲルの自殺事件である。
原因詳細は不明であるが、何度も自殺の意図を漏らしていたと云う。
この苦渋の年月に一体何があったのだろうか、実績を持った指揮者である。
ケーゲルの場合は、何よりも想像できる証しを、偶然日本人に残してくれている。
即ち、亡くなる前年の1989年の来日時に、ベルリンの壁の崩壊、東ドイツ消滅に遭遇、悲痛な心境で、10月18日のサントリーホールでベートーベンの交響曲第5番の指揮をしている。
このライブ録音ほど、鬼気迫る強烈な感動を残してくれた演奏の例を知らない。
どんな思いを込めて第5に託して演奏したか、想像しても切なくなる。その翌年の自殺である。
ケーゲルの苦悩と、この作品の、ヴィースラー、ドライマン、クリスタの夫々の人生を重ね合わせながら観る事になったが、緊張感を持った異様な静けさの中で生き、又闘って行った様相が良く判るし、ヴィースラー役のミューエは実際の妻に10年以上密告され続けていた体験を持つほどであり、今でも恵まれた仕事に就くわけには行かない現実を実にリアルに描かれている。殆どドキュメンタリータッチに構成されていて、夫々が演技を超えた叫びのようなカットの連続で、最後まで惹きつけられた。
翻って考えると、色んな意味で戦争を"総括“しないまま、甘えた終戦処理で済ませてしまった日本と日本人の半端な立場が、今何事にも"無関心”で"謝罪外交“を繰り返す結果となっているのが、逆に見透かされる感じがする。解決には、まだまだ時間を要することであろう。
(☆☆☆☆・☆)
(平成19年3月16日)
ドイツ映画 監督: フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
音楽:ガブリエル・ヤレド
主演:ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ケデック、セバスチャン・コッホ
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鮮烈なドヴィッシー風のピアノ・ソナタ「善き人のためのソナタ」が流れる。
劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)が弾き、恋人クリスタ(マルティナ・ケデック)が寄り添う。
一部始終を盗聴していたシュタージ(国家保安省)のヴィースラー大尉は、そこに流れる哀しくも美しいピアノの旋律と二人の会話に、嵐に撃たれた様な衝撃に立ち尽くす。
心を揺さぶる別の世界がある事に、うち震える。
自らの監視の任務を忘れ、信じがたい行動に走り出してゆく、ベルリンの壁崩壊前の秘密警察の監視下の厳しい旧東ドイツにあった人間性溢れる物語である。
ドイツは東西統一から17年経って、東ドイツであったおぞましい個人の自由を奪った秘密警察による恐怖の実態が描けるようになったと言う。
ドイツは戦後を未だ終わらせていない。昨年公開された映画「白バラの祈り」はナチの反体制学生の弾圧を壮絶に描いていたし、この「善き人のためのソナタ」は独裁政治の残酷さを容赦なく淡々と描いていて、これらの悪夢を映画世界の中で、自らの手で“総括”している。
自由を得る為にこれだけの犠牲があったことを、シリアスに主張している。
しかもこの問題を、戦争を知らない若いドナースマルク監督がこんなアーティスティックに又、情感豊かに描けた事は、特筆すべき事である。
それは過去を洗い流さず、苦渋の事実を正視して明日を見つめている。真摯な視線で、新鮮に“真,善,美”を描いて感銘深いものがある。
さて、厳しい監視の中でドライマンは、東ドイツでいかに自殺者が多いかと云う暗い事実を西ドイツの雑誌「シュピーゲル」に掲載する事で、物語を激しく展開させる。出し抜かれた体制派は警戒を更に厳しくする。
一方この辺から洗脳された監視側のヴィースラーは、任務に反し二人を無表情のまま智恵を絞って協力する。
見所は、盗聴を続ける大尉と劇作家の攻防戦と、その過程で大尉の内面がどう変っていったかであろう。
しかし事態は急進し、権力をかさにして大臣が女優クリスタを脅迫しながら、我がものにしてゆく、恐怖の日常の中に揺れるクリスタの苦渋の選択が描かれ、緊張の頂点で恋人を告発させられる嵌めになる。
罪の意識を持ちながら、彼女は家を飛出し遂に犠牲になる。
恐怖の監視は終了となり、時を経ずして東ドイツは消滅する。
この作品を見ながら、同じ切ない強烈な思い出が鮮明に蘇って来た。
それは1990年11月元東ドイツのドレスデン交響楽団の指揮者、ヘルベルト・ケーゲルの自殺事件である。
原因詳細は不明であるが、何度も自殺の意図を漏らしていたと云う。
この苦渋の年月に一体何があったのだろうか、実績を持った指揮者である。
ケーゲルの場合は、何よりも想像できる証しを、偶然日本人に残してくれている。
即ち、亡くなる前年の1989年の来日時に、ベルリンの壁の崩壊、東ドイツ消滅に遭遇、悲痛な心境で、10月18日のサントリーホールでベートーベンの交響曲第5番の指揮をしている。
このライブ録音ほど、鬼気迫る強烈な感動を残してくれた演奏の例を知らない。
どんな思いを込めて第5に託して演奏したか、想像しても切なくなる。その翌年の自殺である。
ケーゲルの苦悩と、この作品の、ヴィースラー、ドライマン、クリスタの夫々の人生を重ね合わせながら観る事になったが、緊張感を持った異様な静けさの中で生き、又闘って行った様相が良く判るし、ヴィースラー役のミューエは実際の妻に10年以上密告され続けていた体験を持つほどであり、今でも恵まれた仕事に就くわけには行かない現実を実にリアルに描かれている。殆どドキュメンタリータッチに構成されていて、夫々が演技を超えた叫びのようなカットの連続で、最後まで惹きつけられた。
翻って考えると、色んな意味で戦争を"総括“しないまま、甘えた終戦処理で済ませてしまった日本と日本人の半端な立場が、今何事にも"無関心”で"謝罪外交“を繰り返す結果となっているのが、逆に見透かされる感じがする。解決には、まだまだ時間を要することであろう。
(☆☆☆☆・☆)
(平成19年3月16日)
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by masakuzu
| 2007-03-16 21:13
| ドイツ