2007年 08月 03日
ゾディアック (ZODIAC) |
アメリカ映画 原作:ロバート・グレイスミス 監督:デビット・フィンチャー
主演:ジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニーJr
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この選択肢の幅のある世の中で、何故殺人をテーマにした映画などを観るのかと言われそうだが、1960-70年代にアメリカを震撼させたゾディアック事件とは何であったか、単なる殺人事件ではなく、進化し発展した社会に派生した“黴”に焦点を当てている点に注目したい。
即ち、世の中が高度に成長し、豊かな経済社会の中で、いつの間にか皹が入ってゆく社会と人間の関係をいかに修復するか実に難しい問題になっている。進化しているのは文明度ばかりではなく“悪の華”も同時に進化していて、パソコンに侵入するウイルスのようなものである。
しかも、その病巣は底が深く、簡単には消せないものになっている。
原作者、ロバート・グレイスミスは、未解決になったゾディアック事件が、資本主義、人権主義の行き過ぎが齎した結果である点と、結局ウイルス退治が出来なかった警察や司法の限界や欠落を示していて、小説の形で社会的制裁の機会を提供し、これをフィンチャー監督によって映画化されたもので、云わば、アメリカの巷の正義感を示したものである。
アメリカで起こる事件は、津波のように日本でも起こっている。所謂、負のグローバル社会の悪の循環になって派生している。それを煽る“マスコミ”と云う奇怪な存在は洋の東西を問わず悪の進化を手助けしている。
この物語は、3件の殺人事件を起した“ゾディアック”と名乗る犯人が、時の行政やマスコミに対する挑戦状を叩きつけ、無能な司法を嘲笑し、時に冷徹なマスコミにマスコミの機能を逆用した巧妙な手口で復讐する様を描きつつ、事件の持つ裏の実態の解明に迫っている。
大胆にもゾディアックは事件を起して自ら犯人と名乗り、次の事件では新聞社に暗号文を送りつけ、掲載しなければ、次の殺人を犯すと通告する。パズル好きの世相を上手く衝いた不思議な“暗号文の謎解き”に警察、新聞社や一般の読者までが取り憑かれている間に、遊び感覚をただよわせながら、凶行と挑戦は続く。
映画は血眼になって犯人を追跡しようとする4人の男、警察のトースキー刑事、アームストロング刑事、新聞側のエイブリー記者、グレイスミス記者たちを嘲笑うように、犯人は証拠を掴ませず、見え隠れしながら振り回す様相を巧みに描き出している。
結局、長い逮捕劇の間に、トースキーは証拠捏造疑惑で失格、アームストロングは危険な犯人追跡より家族団欒を取って去る。有能なエイブリーも酒に溺れ、左遷される。やっと本の出版に漕ぎ着けたグレイスミスであるが、危険な環境から家族は家を去り一人取り残される。
追跡組は崩壊し、犯人の勝ち残りで映画は終幕となるが、一人単独調査の結果、犯人特定に辿りついたが、裁きの場に乗せられず、犯人に会いに行き、無言で凝視するグレイスミスの目線は怒りと無念さの万感の思いが凝縮していて印象的なシーンであった。
この作品は殺人事件だが、高度成長社会やマスコミから取り残された、無視されている人々に内在する不公平感のリアクションとして描かれている。同時に、成功者に集まる極端な注目度、マスコミが作為する価値基準、評価の基準の幼稚さ、勝ち負け、善悪の単純化、法律で括る世界の浅薄さ、容疑者の権利を守りすぎる司法の風潮などが、世の中を悪くし、事件解決にも支障を来たしている社会環境を表現している。所謂、テロ事件もこうした国際環境と決して無縁ではない。
(☆☆☆☆)
(平成19年7月20日)
主演:ジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニーJr
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この選択肢の幅のある世の中で、何故殺人をテーマにした映画などを観るのかと言われそうだが、1960-70年代にアメリカを震撼させたゾディアック事件とは何であったか、単なる殺人事件ではなく、進化し発展した社会に派生した“黴”に焦点を当てている点に注目したい。
即ち、世の中が高度に成長し、豊かな経済社会の中で、いつの間にか皹が入ってゆく社会と人間の関係をいかに修復するか実に難しい問題になっている。進化しているのは文明度ばかりではなく“悪の華”も同時に進化していて、パソコンに侵入するウイルスのようなものである。
しかも、その病巣は底が深く、簡単には消せないものになっている。
原作者、ロバート・グレイスミスは、未解決になったゾディアック事件が、資本主義、人権主義の行き過ぎが齎した結果である点と、結局ウイルス退治が出来なかった警察や司法の限界や欠落を示していて、小説の形で社会的制裁の機会を提供し、これをフィンチャー監督によって映画化されたもので、云わば、アメリカの巷の正義感を示したものである。
アメリカで起こる事件は、津波のように日本でも起こっている。所謂、負のグローバル社会の悪の循環になって派生している。それを煽る“マスコミ”と云う奇怪な存在は洋の東西を問わず悪の進化を手助けしている。
この物語は、3件の殺人事件を起した“ゾディアック”と名乗る犯人が、時の行政やマスコミに対する挑戦状を叩きつけ、無能な司法を嘲笑し、時に冷徹なマスコミにマスコミの機能を逆用した巧妙な手口で復讐する様を描きつつ、事件の持つ裏の実態の解明に迫っている。
大胆にもゾディアックは事件を起して自ら犯人と名乗り、次の事件では新聞社に暗号文を送りつけ、掲載しなければ、次の殺人を犯すと通告する。パズル好きの世相を上手く衝いた不思議な“暗号文の謎解き”に警察、新聞社や一般の読者までが取り憑かれている間に、遊び感覚をただよわせながら、凶行と挑戦は続く。
映画は血眼になって犯人を追跡しようとする4人の男、警察のトースキー刑事、アームストロング刑事、新聞側のエイブリー記者、グレイスミス記者たちを嘲笑うように、犯人は証拠を掴ませず、見え隠れしながら振り回す様相を巧みに描き出している。
結局、長い逮捕劇の間に、トースキーは証拠捏造疑惑で失格、アームストロングは危険な犯人追跡より家族団欒を取って去る。有能なエイブリーも酒に溺れ、左遷される。やっと本の出版に漕ぎ着けたグレイスミスであるが、危険な環境から家族は家を去り一人取り残される。
追跡組は崩壊し、犯人の勝ち残りで映画は終幕となるが、一人単独調査の結果、犯人特定に辿りついたが、裁きの場に乗せられず、犯人に会いに行き、無言で凝視するグレイスミスの目線は怒りと無念さの万感の思いが凝縮していて印象的なシーンであった。
この作品は殺人事件だが、高度成長社会やマスコミから取り残された、無視されている人々に内在する不公平感のリアクションとして描かれている。同時に、成功者に集まる極端な注目度、マスコミが作為する価値基準、評価の基準の幼稚さ、勝ち負け、善悪の単純化、法律で括る世界の浅薄さ、容疑者の権利を守りすぎる司法の風潮などが、世の中を悪くし、事件解決にも支障を来たしている社会環境を表現している。所謂、テロ事件もこうした国際環境と決して無縁ではない。
(☆☆☆☆)
(平成19年7月20日)
by masakuzu
| 2007-08-03 16:49
| アメリカ