2009年 04月 08日
ダウト(DOUBT)~あるカトリック学校で~ ━疑いをめぐる寓話━ |
アメリカ映画 原作・監督・脚本:ジョン・パトリック・シャンリィ
主演:メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン
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最近、どうも目覚しいアメリカ映画に中々お目に掛れないと思っている所に、何気なく登場してきた、目を見張る作品である。その意味ではアメリカと云う国は実に多極的な国である。
やたらに大音響や、ITや映像技術を駆使した画面展開に終始しているものや、SFものなどサスペンス効果を狙ったエンターテイメントが多い中で、心の深層に迫って、疑惑、不寛容、正義、愛について、観る者を考えさせる場に、いつの間にか追い込んでしまう構成力を持っており、メリル・ストリープやフィリップ・ホフマンの名演技に鳥肌が立つような名作である。
本作品は、シャンリィ監督の戯曲「ダウト」が評判になり、ブロードウエイで大成功を収め数々の賞を受けた舞台劇の映画化である。旧来の価値観が変貌してゆく社会の中で、信条や正義を厳格に追い求めている間に生ずるーその硬質ゆえにー亀裂をどう処理したらよいのか、課題を投げかけている。又上に立つ立場の人間の厳格な判断や不寛容が“疑惑”と云う制御しえぬこだわりを生み、それが確信に変わって行く怖さや、心の中の葛藤を心憎いまで描いている。
物語は、1964年ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校、セント・ニコラス・スクールでの出来事である。時恰も世界のカトリック教会が改革に向って進んでいた時である。
ストイックな規律に厳格で保守的な校長、シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)と一方、温和で開かれた教会を目指す革新的な神父フリン(シーモア・ホフマン)の間に純粋な新任教師シスター・ジェイムスが絡んで、只一人の黒人生徒ドナルドの扱いを巡って、二人の間の信念を賭けた激しい会話の中に、暗示的に展開される。
即ち、行動に疑わしきは塵一つ許さない校長アロイシスと“一人の人間の魂を救うにはどうするか”を先ず優先するフリン神父との軸の違いを巡って知的な会話の火花が散る。
ところが他方、学校で疎外されているドナルドを特別扱いにしているフリン神父に実は少年への特別の“関心”による不適切な関係の疑惑が起こる。事実は結局明らかにされないが、校長はドナルドの母親ミラ-夫人を呼び出して事情を聞くことになるが、ミラー夫人の主張はアロイシスの想像を超えた次元の言葉に、価値観も、判断も揺さぶられる。この二人の会話も後半の山場で白眉である。“何が救いなのか”と云う疑問を投げかけている
結局、シスターアロイシスは揺るがぬ自信でフリン神父の辞任を要求し、別の教会に昇格してゆくようだが、それは主題ではなく、主題は“疑惑”である。“ドナルドを救えるのは神父しかいなかった”その神父を追放した確信の影に“疑惑”と云う罪の重さを感じているように取れるアロイシスとジェイムスとのラストの会話は、メルリ・ストリープの水際立った演技とともに“何が正しかったか”と問いかけたままに終幕とする心憎い演出である。
(☆☆☆☆・☆)
(平成21年4月5日)
主演:メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン
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最近、どうも目覚しいアメリカ映画に中々お目に掛れないと思っている所に、何気なく登場してきた、目を見張る作品である。その意味ではアメリカと云う国は実に多極的な国である。
やたらに大音響や、ITや映像技術を駆使した画面展開に終始しているものや、SFものなどサスペンス効果を狙ったエンターテイメントが多い中で、心の深層に迫って、疑惑、不寛容、正義、愛について、観る者を考えさせる場に、いつの間にか追い込んでしまう構成力を持っており、メリル・ストリープやフィリップ・ホフマンの名演技に鳥肌が立つような名作である。
本作品は、シャンリィ監督の戯曲「ダウト」が評判になり、ブロードウエイで大成功を収め数々の賞を受けた舞台劇の映画化である。旧来の価値観が変貌してゆく社会の中で、信条や正義を厳格に追い求めている間に生ずるーその硬質ゆえにー亀裂をどう処理したらよいのか、課題を投げかけている。又上に立つ立場の人間の厳格な判断や不寛容が“疑惑”と云う制御しえぬこだわりを生み、それが確信に変わって行く怖さや、心の中の葛藤を心憎いまで描いている。
物語は、1964年ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校、セント・ニコラス・スクールでの出来事である。時恰も世界のカトリック教会が改革に向って進んでいた時である。
ストイックな規律に厳格で保守的な校長、シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)と一方、温和で開かれた教会を目指す革新的な神父フリン(シーモア・ホフマン)の間に純粋な新任教師シスター・ジェイムスが絡んで、只一人の黒人生徒ドナルドの扱いを巡って、二人の間の信念を賭けた激しい会話の中に、暗示的に展開される。
即ち、行動に疑わしきは塵一つ許さない校長アロイシスと“一人の人間の魂を救うにはどうするか”を先ず優先するフリン神父との軸の違いを巡って知的な会話の火花が散る。
ところが他方、学校で疎外されているドナルドを特別扱いにしているフリン神父に実は少年への特別の“関心”による不適切な関係の疑惑が起こる。事実は結局明らかにされないが、校長はドナルドの母親ミラ-夫人を呼び出して事情を聞くことになるが、ミラー夫人の主張はアロイシスの想像を超えた次元の言葉に、価値観も、判断も揺さぶられる。この二人の会話も後半の山場で白眉である。“何が救いなのか”と云う疑問を投げかけている
結局、シスターアロイシスは揺るがぬ自信でフリン神父の辞任を要求し、別の教会に昇格してゆくようだが、それは主題ではなく、主題は“疑惑”である。“ドナルドを救えるのは神父しかいなかった”その神父を追放した確信の影に“疑惑”と云う罪の重さを感じているように取れるアロイシスとジェイムスとのラストの会話は、メルリ・ストリープの水際立った演技とともに“何が正しかったか”と問いかけたままに終幕とする心憎い演出である。
(☆☆☆☆・☆)
(平成21年4月5日)
by masakuzu
| 2009-04-08 11:12
| アメリカ