2007年 06月 14日
眉山 ―びざんー |
日本映画 原作:さだまさし 監督:犬童一心 音楽:大島ミチル
主演:宮本信子、松嶋菜々子、大沢たかお、夏八木勲
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遥かに瀬戸内の海を望み、懐に徳島の街を抱いている眉山、その麗姿ゆえに万葉の頃から歌にまで詠み伝えられているこの心癒される空間に、時はゆっくりと流れる。母親と娘の、双方の云えない、又聞けない事情の哀しい行き違いを、鮮烈な阿波踊りの中で同時進行するドラマは春の雪解けのように溶かせてゆく、親子の情感を眉山の柔らかい懐の中で艶やかに描いた秀作である。
原作者は、日本の心を又美しさを、この温かい自然の中で、ひたむきに息づく人々を介して表現しようと組み立て、監督は、効果的にエピソードを重ね合わせ、母龍子(宮本信子)の死期迫る中に
最後の思い出に阿波踊りに連れ出す娘咲子(松嶋菜々子)、そこにやっと姿を見せる父親篠崎(夏八木勲)の三人の表情を映像は万感を込めて、交互に捉え描いている。そして三人の過去を、華麗で壮大な阿波踊りの演舞場の音舞と共に収束してゆく、見事なクライマックスを創りあげた。
物語は、故郷徳島で暮らす只ひとりの家族である、母龍子が入院したと聞いて娘咲子は帰郷する。
隠された母親の過去に、満たされない思いを持ち続けていた咲子は東京で勤務しながらも、取り残された寂しさを拭いきれないでいた。母親は末期癌であると判ったが、気丈な母親に、身勝手さを感じながらも、筋の通った立派さに次第に圧倒されてゆき、正面から向き合うことに決める。
やがて二つの事実が咲子に母の後姿と心情を覗かせ、咲子が踏み込んでゆく流れが旨くできている。即ち、一つは龍子から小料理屋の暖簾わけ受けた松山(山田辰夫)から渡された一つの木箱、もう一つは、母を巡って何時しか気持ちが接近している医師、寺澤(大沢たかお)から、龍子が“献体”を希望していると告げられたこと。
死ぬまでは渡してはいけないと言われた”木箱“から父親からの手紙や写真を見つけ出した。
父親の存在と母の本当の姿と覚悟を知って、父親を訪ね、それとなく阿波踊りに誘うその咲子の気持ちと行動が、ゆっくりしたテンポの流れを、急展開させ終盤の奔流に転調させている。
幾つかのキーになるシーンも形良く挿入されている。キャストも適役をバランスよく配置して説得力もあるが、特に10年ぶりの映画出演と言う宮本信子は、個性ある役柄を深みのある表現で演じていて、この作品の意図を十二分に発揮していて出色である。
周囲は言うならば、これに引き摺られながら、一応絵になっているのではあるが、母親(龍子)と娘(咲子)の二人の人生を描いているのであるから、咲子(松嶋菜々子)の描き方、演じ方には、やや半熟の感じを受けたと云わざるを得ない。龍子を取り巻く人たちへの感情表現、特に医師、寺澤への心の動きが少なく、やっと母親の深い愛を知り得た娘の新しい人生の出発としては、表情が乏しいのではなかろうか。
それにしても、これだけ生の歓喜を見事に表現した阿波踊りを見たことはなく、華麗であり、一糸乱れぬ老若男女の集団の迫力ある演舞は感動的であり、文化の結集であるばかりか、明日への活力の表現になっている。この喧騒の中と、美しい稜線が女性の眉のように見えることで名付けられた眉山の懐で、龍子の人生は静かに閉じてゆくのである。
映画としては阿波踊りのクライマックスで終わっているのであるが、献体者は、二年後まで慰霊祭を待たねばならない事から、既に結婚した咲子と寺澤が慰霊祭に出席する場面を、あえて付け加えている。即ち、合同慰霊祭の主催者側から、お祭の後に献体者が予め書き残した「メッセージ・シート」を咲子宛に返却される。
そのシートには龍子の字で書かれた「娘、河野咲子が、私の、命でした」の言葉を物語に重ね合わせている。最後の付箋は音楽的に言えば、コーダ(最終章の結尾部)で更に母親龍子の心情を残したく、付け加えたように思えるが、やや説明的でありコーダの余韻とはならなかった。
(☆☆☆☆)
(平成19年6月10日)
主演:宮本信子、松嶋菜々子、大沢たかお、夏八木勲
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遥かに瀬戸内の海を望み、懐に徳島の街を抱いている眉山、その麗姿ゆえに万葉の頃から歌にまで詠み伝えられているこの心癒される空間に、時はゆっくりと流れる。母親と娘の、双方の云えない、又聞けない事情の哀しい行き違いを、鮮烈な阿波踊りの中で同時進行するドラマは春の雪解けのように溶かせてゆく、親子の情感を眉山の柔らかい懐の中で艶やかに描いた秀作である。
原作者は、日本の心を又美しさを、この温かい自然の中で、ひたむきに息づく人々を介して表現しようと組み立て、監督は、効果的にエピソードを重ね合わせ、母龍子(宮本信子)の死期迫る中に
最後の思い出に阿波踊りに連れ出す娘咲子(松嶋菜々子)、そこにやっと姿を見せる父親篠崎(夏八木勲)の三人の表情を映像は万感を込めて、交互に捉え描いている。そして三人の過去を、華麗で壮大な阿波踊りの演舞場の音舞と共に収束してゆく、見事なクライマックスを創りあげた。
物語は、故郷徳島で暮らす只ひとりの家族である、母龍子が入院したと聞いて娘咲子は帰郷する。
隠された母親の過去に、満たされない思いを持ち続けていた咲子は東京で勤務しながらも、取り残された寂しさを拭いきれないでいた。母親は末期癌であると判ったが、気丈な母親に、身勝手さを感じながらも、筋の通った立派さに次第に圧倒されてゆき、正面から向き合うことに決める。
やがて二つの事実が咲子に母の後姿と心情を覗かせ、咲子が踏み込んでゆく流れが旨くできている。即ち、一つは龍子から小料理屋の暖簾わけ受けた松山(山田辰夫)から渡された一つの木箱、もう一つは、母を巡って何時しか気持ちが接近している医師、寺澤(大沢たかお)から、龍子が“献体”を希望していると告げられたこと。
死ぬまでは渡してはいけないと言われた”木箱“から父親からの手紙や写真を見つけ出した。
父親の存在と母の本当の姿と覚悟を知って、父親を訪ね、それとなく阿波踊りに誘うその咲子の気持ちと行動が、ゆっくりしたテンポの流れを、急展開させ終盤の奔流に転調させている。
幾つかのキーになるシーンも形良く挿入されている。キャストも適役をバランスよく配置して説得力もあるが、特に10年ぶりの映画出演と言う宮本信子は、個性ある役柄を深みのある表現で演じていて、この作品の意図を十二分に発揮していて出色である。
周囲は言うならば、これに引き摺られながら、一応絵になっているのではあるが、母親(龍子)と娘(咲子)の二人の人生を描いているのであるから、咲子(松嶋菜々子)の描き方、演じ方には、やや半熟の感じを受けたと云わざるを得ない。龍子を取り巻く人たちへの感情表現、特に医師、寺澤への心の動きが少なく、やっと母親の深い愛を知り得た娘の新しい人生の出発としては、表情が乏しいのではなかろうか。
それにしても、これだけ生の歓喜を見事に表現した阿波踊りを見たことはなく、華麗であり、一糸乱れぬ老若男女の集団の迫力ある演舞は感動的であり、文化の結集であるばかりか、明日への活力の表現になっている。この喧騒の中と、美しい稜線が女性の眉のように見えることで名付けられた眉山の懐で、龍子の人生は静かに閉じてゆくのである。
映画としては阿波踊りのクライマックスで終わっているのであるが、献体者は、二年後まで慰霊祭を待たねばならない事から、既に結婚した咲子と寺澤が慰霊祭に出席する場面を、あえて付け加えている。即ち、合同慰霊祭の主催者側から、お祭の後に献体者が予め書き残した「メッセージ・シート」を咲子宛に返却される。
そのシートには龍子の字で書かれた「娘、河野咲子が、私の、命でした」の言葉を物語に重ね合わせている。最後の付箋は音楽的に言えば、コーダ(最終章の結尾部)で更に母親龍子の心情を残したく、付け加えたように思えるが、やや説明的でありコーダの余韻とはならなかった。
(☆☆☆☆)
(平成19年6月10日)
by masakuzu
| 2007-06-14 14:57
| 日本